新着情報
Topics
「クリエイトツルモト」から「ケイトップ」へ リーマンショック後、会社の売上は大きく落ち込みました。しかし、本当に苦しかったのは売上だけではありませんでした。私にとって大きな課題だったのは、これからの会社に何を残し、何を手放すのかを決めることでした。 創業以来、当社には長年続けてきた事業がありました。先代の時代から会社を支えてきた大切な仕事であり、当時の売上の大きな割合を占めていました。しかし、時代の流れ、制度面での変化、社会からの見られ方を考えた時、これからのケイトップの柱として同じ形で続けていくべきなのか、私は強く悩むようになりました。 売上が落ち込んでいる中で、さらに仕事を絞る。普通に考えれば、とても怖い判断です。それでも、目先の売上を守るために過去にしがみつくことが、本当に会社を守ることなのか。これからは、会社として胸を張れる仕事、現場で本当に必要とされる仕事に集中すべきではないか。そう考えるようになりました。 当時の当社のイメージは、どうしても先代から続く仕事や、スカイトイレに関連する一部の業務と強く結びついていました。その印象を変えることは、想像以上に大変でした。長年染みついた会社の見られ方は、簡単には変わりません。 毎日が苦しく、先が見えない時期でした。飛び込み営業を続けても、すぐに結果が出るわけではありません。いっそのこと、すべてを投げ出したいと思ったこともあります。心に余裕がなくなり、家族にきつい言葉をぶつけてしまったこともありました。 それでも、立ち止まるわけにはいきませんでした。このまま過去の延長線上で会社を続けるのではなく、仮設給排水工事や自社商品の開発など、これからの会社を支える仕事に力を入れていこうと決めました。 やめることは、逃げることではありません。未来に進むために、あえて手放す決断も経営なのだと、この時期に身をもって学びました。 そして私は、会社の中身だけでなく、見られ方そのものを変える必要があると感じるようになりました。当時の社名は「クリエイトツルモト」。先代が築いた名前であり、スカイトイレの代名詞として建設現場では広く知られていました。その看板を下ろすことは、先代の歴史を否定するようにも感じ、強い迷いがありました。 私は、創業当初から父を支えてきた母に、思い切って自分の苦悩を打ち明けました。会社のイメージを変えたい。これからの時代に合わせて、新しい会社として進みたい。そう伝えました。 反対されると思っていました。ところが母は、私が言い出す前にこう言ってくれました。 「そんなにイメージを変えたいなら、社名を変えるのも一つの方法だと思う」母は静かにそう言ってくれました その言葉に、私は大きく背中を押されました。 2013年、私は「クリエイトツルモト」の看板を下ろし、新たに「ケイトップ」という社名を掲げました。「K」には、key point=重要な要という意味を込めました。現場やお客様にとって欠かせない、なくてはならない存在でありたい。「TOP」には、常に上を目指し、挑戦し続けるという決意を込めました。 父が築いた土台、母の温かい承認、そして未来へ進む覚悟。売上の大半を手放し、看板まで変えたこの決断が、今のケイトップにつながる大きな転換点になったと思います。母は、社名をケイトップに変えた翌年、静かに息を引き取りました。今振り返ると、あの時に背中を押してくれた母の言葉は、私にとって最後の大きな贈り物だったように感じています。
給排水工事という新たな武器を手にし、「さあ、ここからだ!」とアクセルを踏み込もうとした矢先、とてつもない大波が容赦なく襲いかかってきました。 2008年9月。アメリカの投資銀行リーマン・ブラザーズの破綻――いわゆる「リーマンショック」です。 当初、私は「来年あたりから少し景気が悪くなるのかな」とのんきに構えていました。しかし、波が押し寄せるスピードは予想を遥かに超えていました。 翌10月、大口の現場から「突然ですが、今回のプロジェクトは全面キャンセルで」と一本の電話が入りました。 それを皮切りに、会社の電話がピタリと鳴り止んだのです。 あまりの静けさに、はじめは「電話機が故障しているんじゃないか?」と本気で疑い、自分の携帯から会社の固定電話にかけて確認したほどでした。 流れは一気に悪化し、翌年の決算では売上がなんと7割減。 初めて直面する危機に、私の心は悲壮感と焦りで完全にすさんでいきました。心の余裕を失った私と従業員との間には深い溝ができ、退職者が続出。数ヶ月もの間、自分から笑顔が消えていたことに気づいた時、経営というものの本当の怖さを思い知らされました。 「今までと同じやり方は、もう一切通用しない」 しかし、ここで腐ったら終わりです。私はとにかく行動することにしました。じっと事務所にいても仕事は降ってきません。藁をも掴む思いで、あらゆる会合や展示会へ足を運びました。 そこで運命的な出会いがありました。あるデザイナーの方と出会い、「補助金を活用して、自社オリジナルの商品を開発してみてはどうか」という提案を受けたのです。 「新機軸がダメなら、原点に戻ろう」 そう決意した私は、先代が遺してくれたあの「スカイトイレ」のリニューアルに着手しました。 ここから先の見えない試行錯誤が始まりました。実は、最初に作った第1弾の新型スカイトイレ「スマートスカイ」は失敗に終わっています。補助金が出たこともあり、意気込んでステンレス製の高品質・高コストなものを作ってしまったため、市場のニーズに全く合わなかったのです。 しかし、私は諦めませんでした。その失敗のデータを活かして改良を重ねた第2弾で、なんとか実用的な商品化に成功。この時開発したスカイトイレ「ウィング」は、今でも現場で現役として使用されています。 さらにこの挑戦を機に、社内でシンクやシャワーといった水回り製品を自社製造できる技術と設備が整いました。会社の体質が、単なる「レンタル施工業者」から「モノ作りもいざとなれば出来る会社」へと変わっていきました。 この地獄のようなリーマンショックから、私は大きく2つの教訓を得ました。 ひとつは、既存の事業にしがみつき、同じことを繰り返しているだけでは、いざ大きな時代の変化が起きた時に会社を守れないということです。景気が良い時は今まで通りでも何とかなるかもしれません。しかし、一度大きな波が来れば、変化できない会社は一気に追い込まれてしまいます。だからこそ、常に新しいことに挑戦し続ける姿勢が必要だと痛感しました。 もうひとつは、企業としての強み、つまり付加価値を持つことの大切さです。価格だけで比べられる仕事を続けている限り、会社はいつまでも消耗戦から抜け出せません。お客様に「この会社に頼みたい」と思っていただくためには、技術、対応力、商品力、提案力など、価格以外で選ばれる理由をつくる必要があります。 その一つの形が、自社商品の開発でした。ただし、独りよがりに良いものを作っても、お客様には届きません。製品としてのデザイン性、使いやすさ、そして何より現場での徹底した市場調査が欠かせません。ネットの情報だけでは分からない、現場監督や職人の声、困りごと、実際の使われ方。そうした一次情報こそが、商品開発において最も大切な判断材料になると学びました。 リーマンショックのどん底で気づいた「挑戦し続けること」と「付加価値を持つこと」。この考え方が、後のケイトップの商品開発、そして現在取り組んでいる第三創業への足掛かりとなったのです
配管学校を無事に卒業し、「給水装置工事主任技術者」「排水設備工事責任技術者」、そして溶接などの資格を次々と取得しました。 さっそく水道事業者としての登録を済ませたものの、現実は甘くありません。手元にあるのは資格だけ。いきなり大きな現場を動かせるだけの人材もおらず、実績も、ノウハウも、何もかもが足りない「ないない尽くし」のスタートでした。 見積の適正単価すら分からなかった私は、当初、仕事をあえて外注(協力業者様)にお願いし、その見積書や実際の施工内容を文字通り「見て、盗んで、覚える」ことから始めました。 ちょうどこの頃、関西でも少しずつ超高層現場が立ち上がり始めていたため、それらの現場でどんな部材や機材が使われているのかも、必死に観察して回りました。 そんなある日、とある大手ゼネコンの本社ビル建て替え工事の情報を耳にします。 実績がどうしても欲しかった私は、今では考えられないような行動に出ました。「朝の7時」に、その現場へ飛び込み営業をかけたのです。 普通、営業といえば昼間にネクタイを締めて行くものです。しかし、朝7時に作業着で現れる営業マンなんて他にいません。最初は当然、「なんだコイツは」と煙たがられました。しかし、ゼネコンの現場の朝は早い。朝一番から頭を下げて立っている私を見て、「お前、朝早くから頑張っているな」と、少しずつ話を聞いてくれる人が現れ始めたのです。 その時、私が投げかけた営業トークは、今思えば大博打でした。 「水道工事をさせてください。どうしても実績を作りたいんです。材料費だけで構いません!」 目先の利益を全て捨ててでも、私は「一歩目の実績」という無形の資産が欲しかった。その覚悟が通じたのか、なんと本当に、初めてとなる給水施工のチャンスをいただくことができたのです。 現場を必死に、完璧に納めました。すると、その誠意を神様が見ていてくれたのかもしれません。 その後、そのお客様が**「40階建ての超高層マンション」を手がけることが決まった際、なんと当社に仮設給排水工事を丸ごと請け負わせていただくことになったのです。 実績も何もない若造の「覚悟」を買い、チャンスをくださった当時の現場の皆様には、今でも感謝の念に堪えません。この出会いこそが、当社の大きな転換期――「第二創業」への扉を開く鍵となりました。
実績ゼロの若い代表が、信用をつくるために始めたこと 先代から引き継いだお客様とのつながりは、私にとって大きな財産でした。とはいえ、当時の私は勉強が得意だったわけでもない高卒の26歳。実績も実力も十分ではなく、周囲からすぐに信用してもらえるほど甘いものではありませんでした。 偉大だった父に、少しでも近づくにはどうすればよいのか。必死に考えた末に思いついたのが、父と同じ早朝3時起きを続けることでした。当時の私にできる、数少ない覚悟の示し方だったのかもしれません。 最初は目覚まし時計を5個セットして、ようやく起きる日々でした。しかし慣れとは不思議なもので、24年経った今では、時計が鳴る前に自然と目が覚めるようになりました。 実績のない若い代表者にとって、信用を得ることは簡単ではありません。特に大手ゼネコンの現場では、経験だけでなく、資格や知識も必要です。私は誰にも邪魔されない早朝の時間を使い、資格取得の勉強にも取り組みました。 とはいえ、仕事をしながらの勉強は決して楽なものではありませんでした。ただ「絶対に合格するんだ!」という強い意志をもって毎回試験に臨んでいたことを今では懐かしく思います。ちなみに数ある資格の中で、今一番役に立っているのは普通自動車第一種免許かもしれませんが……。 当時の社名はクリエイトツルモト。主力商品は、先代が考案し名付けた現場用の男性用小便器「スカイトイレ」でした。この商品があったからこそ、建設現場で会社の名前を知っていただくことができました。今のケイトップにつながる、大切な原点です。 大きな会社のように、人や設備が潤沢にあるわけではありません。代表である自分自身が現場に出て、自分の目で見て、考えて、判断するしかありませんでした。 そんな中、東京の現場を見る機会があり、私は強い衝撃を受けました。関東ではすでに、超高層ビルが次々と建っていたのです。 「いずれ関西にも、この波が来る」 そう直感しました。超高層現場になれば、上階まで水を押し上げるポンプや、給水・排水を理解した施工技術が必ず必要になる。その時に備えるには、まず自分自身が学ばなければならないと考えました。 そして30歳の時、働きながら配管を学べる学校の存在を知り、入学を決めました。生徒の多くは水道事業者の二代目や設備業者の社員たち。4月から翌年3月まで、仕事をしながら週に数回通う日々が始まりました。 朝3時に起き、仕事の段取りをし、現場をこなし、勉強して学校へ行く。体力的には厳しい一年でしたが、あの時に学んだことは、後の仮設給排水工事や職業訓練指導員の資格取得にもつながりました。 今振り返っても、あの一年は私にとって大きな財産です。そしてこの学びが、ケイトップを次の段階へ進める第二創業の土台になっていきました。
今年、私は50歳という節目を迎えます。 24年間、会社経営に向き合ってきた中で、楽しいことばかりではなく、苦しい決断や大きな転機も数多くありました。 その経験をただ自分の中に置いておくのではなく、これからの世代や、同じように挑戦する方へ少しでも残していきたい。 そんな思いから、私の経営人生を大きく変えた「3つの創業」の物語を、全10話で綴っていくことにしました。 小さな会社が、時代の変化の中でどう生き残り、どう挑戦してきたのか。 その歩みを、少しずつお伝えしていきます。 第1話 26歳で代表者になる 引き継ぎのない事業承継から始まった私の経営人生 私が会社を継ぐことを現実として意識したのは、24歳の頃でした。 家族全員が病院に集められ、父の余命を告げられました。長くて半年。頭の中が真っ白になる一方で、「会社はどうなるのか」という思いが脳裏をよぎったことを、今でも覚えています。 当時の私は、精神的に決して強い人間ではありませんでした。このままではいけない。自分を律し、心身を鍛えなければならない。そう思い、24歳から父が他界するまでの約2年間、空手道場に通いました。 とても厳しい稽古でしたが、あの時期に心身を鍛えた経験が、その後の経営人生を支える土台になったと思っています。 父は昭和8年、鹿児島県出身。曲がったことが大嫌いで、とにかく厳格な人でした。自衛隊を経て大阪へ出て、何度か事業に挑戦したのち、現在の仕事にたどり着いた人です。 仕事には鬼のように打ち込み、早朝3時に起き、休みは元日だけ。私はそんな父の背中を見て育ちました。 父は余命宣告から約2年後、朝5時過ぎに病院で息を引き取りました。 最後の瞬間を見届けたその日も、現場の仕事は入っていました。普通であれば、親が亡くなった日に仕事へ行くことなど考えられません。 しかし、葬儀の手配をしてくれる母から、こう言われました。 「普通なら、親が死んだ日に仕事なんてしない。でも、仕事をすることが、お父さんにとっての供養になる。お父さんもきっと喜ぶから、辛いけど仕事へ行きなさい」 その言葉を受けて、私は悲しみを押し殺し、会社へ向かいました。 今でも、その日のことは鮮明に覚えています。父を亡くした悲しみと、会社を止めるわけにはいかないという責任感。その両方を抱えながら、ただ目の前の仕事をこなすしかありませんでした。 その日から、私の立場は実質的に社長となりました。 しかし、職人気質の父は「見て覚えろ」という人でしたので、十分な引き継ぎはほとんどありません。 代表取締役となってからは、とにかく必死でした。朝6時から自ら現場へ出向き、夕方からは請求書や伝票処理などの事務作業。年末の繁忙期には夜22時まで仕事をし、翌朝また6時から現場へ出る日々でした。 古株社員との軋轢(あつれき)もありました。銀行から連帯保証人の書類を求められた時、その重要性すら十分に分からないほど、目の前の仕事に追われていました。 現場で代表が変わったことを伝えると、「先代には世話になったから、安くしてな」と言われることが多々ありました。二代目としての厳しさを、若くして痛感しました。 一方で、「先代と同じように、これからも付き合うよ」と言ってくださる方もいました。その言葉には、本当に救われました。 この経験から、私が強く思っていることがあります。 事業承継は、元気なうちに、包み隠さず、できる限り伝えておくべきだということです。 私は、引き継ぎのない承継の厳しさを身をもって経験しました。だからこそ、次の世代には同じ思いをさせたくない。 父の死、母の言葉、そして悲しみを押し殺して現場へ向かったあの日の経験は、私の血となり肉となりました。 今振り返ると、あの日が、私の中に経営の魂が宿った原点だったのだと思います。 これが、私の経営人生の始まりでした。 次回予告 次回は、実績も信用も足りなかった私が、父に少しでも近づこうと始めた「早朝3時起き」と、配管学校への挑戦について書きたいと思います。
50歳を目前にして、ふと考えました。 「このままでいいのか」「一度、自分をリセットするタイミングではないか」 日々の仕事や生活の中で、知らず知らずのうちに力が入りすぎていた自分。そこで私は、人生を一度リセットする挑戦として、スカイダイビングとバンジージャンプを同じ日に体験することにしました。 本日は天候にも恵まれ絶好のジャンプ日和午前中はコウノトリ空港でスカイダイビング。受付と講習を終え、ツナギとハーネスを装着し、セスナ機へ乗り込みました。 セスナ機はかなり年季が入っていて、緊張感がさらに高まります。高度3,500mまで上がる時間は、とても長く感じました。恐怖と緊張感が高度が上昇するとともに増します。でもタンデムなので、身を任せる覚悟はできていました。 そして、いよいよジャンプ。 開口部に足を出し、一気に空へ飛び出した瞬間、今まで経験したことのないスリルとスピード感。時速200kmとも言われる風を全身で受けながら、一瞬だけ「このまま落ちたら死ぬんやな」と頭をよぎりました。 でも、それ以上に勝ったのは爽快感でした。 数秒後にはカメラマンに手を振る余裕も出て、空の中にいる自分を楽しんでいました。パラシュートが開いてからは、景色を見ながらゆっくり地上へ。無事に舞い降りた瞬間、心から思いました。 緊張感からの爽快感。飛んでよかった。 その後、150kmの移動を経てそのまま茨木市のバンジージャンプへ。 スカイダイビングで3,500mを飛んだ後なので、正直、高さ50mのバンジーは大したことないと思っていました。ところが、ジャンプ台に立って下を見た瞬間、足がすくみました。 スカイダイビングとは違い、バンジーは水面との距離がリアルに見えます。その近さが、逆に怖い。 スタッフの合図で背中を押された瞬間、体は一気に下へ。遊園地のフリーフォールのような、内臓が浮く感覚。飛んでいる間は爽快感よりも恐怖が勝っていました。 そしてロープが効いた瞬間、強烈な負荷がかかって終了。本当に一瞬でした 恐怖からの終わった後の安堵感はありました。 同じ「飛ぶ」でも、スカイダイビングとバンジーはまったく違います。スカイダイビングは、緊張を超えた先に爽快感がある。バンジーは、恐怖を真正面から受け止める体験でした。 今回の挑戦で感じたのは、挑戦とは人に見せるためではなく、自分の覚悟を確認するためのものだということです。 怖いと分かっていても、一歩踏み出す。 不安を避けるのではなく、受け入れて乗り越える。そうすることで、少しだけ自分が軽くなる気がしました。 50歳はまだまだこれから。年齢を理由にせず、この「飛べる」という自信を糧に、これからの仕事や人生も力強く歩んでいこうと思います。ケイトップ 鶴元